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奇想の浮世絵師 歌川国芳 たくさん入荷しています!

どうも。

本日は歌川国芳の商品が入荷しましたのでお知らせいたします。

歌川国芳とは?

一勇斎。江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した絵師である。
1797年(寛政9年)、江戸日本橋本銀町一丁目[1][2](現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に生まれる。父は京紺屋[1](染物屋)を営む柳屋吉左衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。一勇斎、朝桜楼(ちょうおうろう)、採芳舎(さいほうしゃ)と号す。
三囲神社碑文[3]によれば、国芳は幼少期から絵を学び、7、8歳で北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国(1769年 – 1825年)が目に留め、1811年(文化8年)に15歳で入門した[4]という。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞(1786年 – 1864年)がいる。国芳は入門の数年後、1814年(文化11年)頃刊の合巻『御無事忠臣蔵』表紙と挿絵が初作とされる。学資が乏しく月謝が払えないので、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く[5]。また、勝川春亭にも学んでいる。さらに葛飾北斎の影響も受け、後に3代堤等琳に学んで、雪谷とも号した。
師・豊国没後の1827年(文政10年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズ[6]が評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。
『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』 華佗の医術で肘の切開手術を受ける関羽。
ところが国芳45歳の時、運命は一変する。老中水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年(天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱は真田幸貫、坂田金時は堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光は土井利位、土蜘蛛は筒井政憲、矢部定謙、美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。
やがて目の上のタンコブであった水野忠邦は失脚。国芳は待ってましたとばかりに江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』(1848年(嘉永元年) – 1854年(安政元年))は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。桁違いの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝え、国芳を称える声が満ち溢れた。
武者絵で大成功を収めた国芳は、一人の絵師として気にかけていたものがあった。国芳は『近江の国の勇婦於兼』(1830年(天保元年))で、画面左側の女性は伝統的な美人画の技法で描かれているが、対する馬はまるで西洋画のようにリアルな立体感が陰影によって描かれている。実は国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。国芳は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。そんな国芳が56歳の時、新たなシリーズの製作に取り掛かった。それは47人の志士が揃う忠臣蔵である。国芳はこの作品を新しく学んだ西洋画の技法で描いてみようと思い立った。この時代、公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度であり、あくまで戯曲化され、舞台で演じられる役柄として描くしかなかった。ところが西洋画を学んだ国芳はかつてのような派手な見得を切る大石内蔵助ではなく、実在の人物としてリアルに描こうとした。国芳が生み出した迫真のヒーロー像であったが、派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとって写実的な肖像画は受け容れられず、すぐに打ち切りとなった。
国芳が赤穂浪士を描いた翌年の1853年(嘉永6年)、浦賀にペリーの黒船が来航した。1856年(安政3年)初め頃に中風を患い、4年前後辺りから人物描写に硬直味が見られ、描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始める。華々しい武者絵の世界を築いた国芳はひとつの時代の終焉に合わせるかのように1861年(文久元年)に65歳の生涯を閉じた。墓所は最初浅草八軒町、大正初めに千住に移され、戦後は小平市上水南町の大仙寺。法名は深修院法山信士。墓石に井草と記されている。国芳には多くの門弟がおり、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も国芳に弟子入りしたことがあった。
歌川国芳は江戸時代末期を代表する浮世絵師。近年では「幕末の奇想の絵師」として注目され世界中から評価されています。しかし、同時代に活動した葛飾北斎や歌川広重らの人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は決して高くはありませんでしたが画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品は再び評価されることとなりました。
初代歌川豊国に入門した国芳は様々なことを教わり、豊国が没した後「通俗水滸伝豪傑百八人」という「水滸伝」のシリーズが評判ととなり、“武者絵の国芳”と称され人気絵師の仲間入りを果たしました。
国芳の作品は役者絵、武者絵、美人画、名所絵から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっています。特にその中でも歴史・伝説・物語などに題材を採り、巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品が特徴でもあります。また、無類の猫好きでも知られていて作品の中に度々猫が登場しています。
最近では国芳の作品「東都三ツ股の図」にスカイツリーが描かれているといって話題になりました。
以下、そんな国芳の商品をご紹介いたします。

「水滸伝豪傑百八人 天罡星 三十六員 四枚内」

一勇斎国芳
木版画 大縁断ち 36×24.5

「小倉擬百人一首 花和尚魯智深」

一勇斎国芳/在原業平朝臣
木版画 折れ跡有 少傷み 36×23.5

「欠留人物更紗 十四人のからだにて三十五人にみゆる」

一勇斎国芳
故實研究會 木版画 複製版 16.5×36.5

「源三位頼政 鵺退治の図」

一勇斎国芳
木版画 3枚続 額装 35×75

没後150年 歌川国芳展

2011年/ 日本経済新聞社

国芳妖怪百景

悳俊彦編 須永朝彦文
2009年/ 国書刊行会 カバー 帯
この他にも国芳の商品多数ございます。こちらからご覧ください。→◎歌川国芳 HP一覧◎
国芳の書籍は神保町ボヘミアンズ・ギルド1Fに、浮世絵は2Fにございます。
皆様のご来店お待ちしております。


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